後半からさらにつづき)

こんなこともありました。

僕はあまり運動が得意ではなく、運動会の徒競走ではいつもびりの常連でした。
それを分かっている母は、小学6年の時、急に「あんたソフトボールチームに入りなさい」と急に言い出して、私を地域のチームのところに引っ張っていきました。
でも6年生の夏頃から始めたので、ちっとも上手くなるわけはありませんでした。
でも、運動は得意ではなかったものの、少なくともスポーツの楽しさを知る経験にはなりました。それでかはわかりませんが、運動のコンプレックスがなくなったのか、一応中学高校と、へたくそながらも軟式テニス部に入ってました。

高校の時、僕がもう少しお小遣いが欲しいとでも言ったのかもしれませんが、これもある時急に、バイト先を見つけてきて、「あんたバイトに行ったらいいよ」と言って、週に1日、日曜日だけ近くのスーパーの中にある乾物屋さんに行かされました。
1日10時から5時まで6時間働いて、2500円。時給たったの420円ほど。お昼ご飯付き。店長のポケットマネーからうどん代500円をもらってスーパーのテナントのうどん屋さんで食べてました。
今思うと少ない給料でしたが、月に1万円もらえるのは高校生にとって大きな金額でした。
冬休みの年末1週間を連続でバイトした時は、初売りで欲しかったジャンパーをバイト代で買ったのでした。高校2年の1年間だけはとてもリッチな高校生でした。

なんだかその時々の思い付きのようでもありますが、こうして書いてみて気が付きましたが、母はいろんな経験をさせてくれたみたいです。

母のことを思い出すとこの歳になっても、気持ちがほっこりします。
母は29の時に死んでしまいました。なので大人としての会話をした記憶がありません。

子どもの時の思い出を振り返っていて、妻にこんな風に思い出話を時々するのですが、
妻があるときこう言ってくれました。

「章さんのお母さんはとてもやさしい人だったんだね」
と。

そうか、そうなんだな。自分ではそんな風に言い表したことがなかったから。
確かにやさしい人でした。

そして、
「ああ、僕の子ども時代はしあわせだったのかも知れない」
とふと思うのでした。

母の日に書けば良かったな。