「今こんな風に思っているんだ」と自分の話をし始めたときに、
「でもあの時こうだったよね」と言われることがある。

でも自分としては、過去の自分の考え方を少しずつ改善しつつある。
つまり、昔の自分とは少しずつ変わっていて、もうその時とは違っていると思っているのである。

だから、「あの時こうだったよね」と言われるのは、多少心外なところがある。
出来ないことや上手くいかないことを日々考えて、どうしたらいいかの方策やヒントを探る日々を積み重ねているのだ。

つまり、過去の自分自身に悩み、葛藤し、闘っているのだ。
でもその闘いは、そう簡単に華々しい勝利を得ることはない。
ただ自分としては、勝利はしてないが、前進はしているつもりでいる。

ただこう考えてみよう。
「あの時はこうだったよね」というのは、客観的に過去と現在がどれだけ変化をしたかを比較する機会を与えられているのだと。

心外だと思うあまり、「今はもう違うんだ」と腹をたててしまうこともある。
自分の中では変わったつもり、前進しているつもりでも、外からは見ることができないから、変化してないと思われるのも仕方がない。
その変化を具現化する必要があるのかもしれない。

それは生き方として、普段の言動や行動に表す必要があるのかもしれない。
いや言動や行動にあらわれてこそ変化を遂げたと言えるのだろう。
身近な人は小さな変化も分かってもらえるはずだけど、
よくわかっているからこそ、その小さな変化は変化とは言えないという客観的な評価なのだろう。

それでも行動に表せないとしたら、まだ変化というにはほとんど差がなく、自分だけが変わっているのだと思い込んでいて、まだまだ解決すべき課題やブロックがあるのかもしれない。

僕は昔から、不言実行できたら、本物だと思って来た。
ただ妻にだけは、実行前のカオスのところも見せてきた。
そしてカオスの後、実行に移して具現化を果たしてきた。

ただ、ここ数年は、カオスだけで、実行実現が伴っていない。
そうするとただのヘタレだ。能書きだけだ。

それが昨年、実行できたことがあった。
それまでのコンプレックスをひとつ解消できたのだ。

そのときはどうしたのだろう?

そういえば、妻に能書きを言わず、行動に移した結果を、少し前に進んだら話し、
また少し前に進んだら話すということを繰り返した。

自分の意志が大切なのだ。
意志がきちんと持てていること、
行動が意志の表れだということなのだ。

それを実績にして、また自分自身の見本として、その時のやり方を思い出したらいい。