僕の性格を形成している大きな要因は、
子どものとき転校を繰り返したことにあると思っている。

転校先でどういう状況に置かれるかというと、
すでに仲良くなっているそのクラスの子どもたちの中に
見知らぬ子どもが入ってくるわけで、転校してきたその子どもは、
しばらくの間、孤独感や疎外感を感じることになる。

その状況の中で、僕は僕なりの順応性を身に着けていく。
ただ、目立つ子どもでもなく、どちらかと言えばおとなしい僕は、
クラスに溶け込むというよりは、
物理的にも身近なところに、話し相手だけを見つけることでセーフティゾーンを形成し、
自分のテリトリーを確保することができればそれでよかった。

それが今でも大きく変わらない僕の環境設定の方法になっている。

僕は、鹿児島市の小学校で入学式を迎えたが、
入学したばかりの小学校から5月の最初に転校した。
そして、遠く離れた奄美大島の小学校に行くのだが、
引っ越しと同時に、はしかにかかり、結局、転校のあいさつをしたのは
6月の終わりごろだった。
奄美の小学校のクラスの子たちには、すでに遊び仲間のグループが形成されて、すっかり僕は出遅れた形となった。

奄美大島で小学1年生から2年生までの2年間を過ごしたが、
実は奄美大島の小学校で過ごした記憶がほとんどない。
記憶にあるのは、学校の中ではなく、うちで過ごしたことばかり。
なぜか学校のことをあまり覚えていない。
でも、鮮明に覚えているのは、転校したばかりのころ、
給食室のパン工場(離島だったせいかパンを給食室で作っていた)でパンがベルトコンベアに載って流れながら、作られていく様子を一人でずっと見ていたこと。

おそらく、遊び相手がおらずに一人で休み時間を過ごしていたのだと思う。
寂しかったはずだと思うのだけど、その感情はよく覚えていない。

次は3年生に上がるタイミングで北九州市の小学校に転校した。
多分始業式の数日後ぐらいに行ったのだろう。
教室のまえであいさつをしたことをかすかに覚えている。
この小学校で卒業まで過ごしたが、クラスの友だちは少なかった。
仲がよかった友だちは、近所に住んでいたクラスの違う同級生だった。
団地のアパートの2階に住んでいて、同じ階段の3階のウチダくんと5階のサコダくんが僕の友だちだった。
でも中学に上がるころには、彼らはどこかに引っ越していった。

僕は公立の中学には行かなかった。
そのころの北九州の中学校は荒れていて、時代は尾崎豊の歌詞そのもので、窓ガラスが割られていたような学校だった。窓には金網が取り付けられていた。
おとなしい僕は、親の勧めで中学受験をしたのだった。

僕は運よく抽選に当たって、附属中に行くことになった。
ただそこでは生徒の3分の2が附属小からきた子たちで、またしても疎外感を感じる経験をすることになった。

僕は大人になっても集団に対する帰属欲求が少ない。
会社員の時は、会社の同僚とプライベートで遊びたいとは思わなかった。
自分の指向性もあって、他の人がやらない分野を選ぶ結果となり、仕事を共有する同僚もいなかった。

僕は心が許せる数人の友だちがいればそれでいい。少ない友だちで満足できる。
むしろそのほうが安心できる。
究極は、妻とだけ仲良ければそれで十分だ。
妻は大事な僕の友だちなのだ。

ただし、ことわっておくが決して、自閉症とか引きこもりとかではない。
ひとりでどこにでも行ける。多少の社交性もある。
ちゃんと仕事の打ち合わせもこなすし、知らない人とだって話はできる。

ただ、僕にはひとつブロックがある。

僕は「人を頼らない」

自分で出来ることはほとんど自分でやろうとする。
とうとう、今の家のリフォームは妻と二人でセルフビルドでやった。
ここに書き連ねないが、そういうプロの人がやることでも、自分でやれることはかなりやってきた。
自分でとてもできないと思わない限り、人に頼むという選択肢はかなり後からでないと頭に浮かばない。

良い面では、しっかり自立していると言える。
あまり、人に弱さを見せない。

良くない面では、無理してでも自分でやろうとする。結果中途半端になったり、失敗したりする。

僕は転校や引越しを繰り返したことが原因でそんな風に性格が形成されたと思っていたし、
そう思い込んでいた。

ただ、人を頼らないことと自立心は別々だったことがわかった。

(つづく。。。)